生きる意味

生きる意味。大きな世界で助け合って生きている。なぜ生きるかは自分にしか答えが出せない。
広い草原で手をつないでいる兄弟。

生きる意味は子孫を残すこと。

自分が生まれた意味は解脱する事。

子孫を残す。

人間は生物です。生物の最大の使命は子孫を残すことです。子孫を残すために細菌や植物、動物に至るまで四苦八苦しています。

植物は根付いたところから動けません。従って自分の子孫を残すために種を作り、自分の居場所から離れたところにその種を運ぶことができるように工夫されています。種が風で運ばれたり、動物にくっついて他のところに行ったりわざと食べられ低排便してもらいそこから発芽するというようなことです。そして、そこでの成長に都合のいい丈夫な子孫が生き残ります。

動物は、自らから動き子孫の繁栄するところを探します。そこで他の動植物と食べたり食べられたりしながら適応した自分の子孫が生き残っていきます。この用に生命として生まれたからには子孫を残ささねばなりません。

自分が生まれた意味。

およそ生命には太古から受け継がれる自我意識、深層意識が有ります。人間だけではありません。これを阿頼耶識(あらやしき)と言います。阿頼耶識の一つ上に、末那識(まなしき)と言う今の自分を形作っている深層意識が有ります。これは表層意識と同じように今だけの意識です。今の意識は太古からの阿頼耶識を常に見ていて、表層意識に反映します。表層意識は自分を取り巻く環境に注意を払っています。この表層意識と末那識のギャップ(自分中心と周り中心)が悩みになります。

生きる意味はこの環境に適合しようとする表層意識の問題で、阿頼耶識を意識するする末那識にはかかわりが有りません。従って生きる意味を考えると悩みになってしまいます。

人はそれぞれ環境が違いますから自身でそれに合った答えを見つけなければならないと言う事ですね。人に聞いても参考になるけどちょっと違うと言う感じになると思います。

そこで解脱。解脱は輪廻の輪から外れること。輪廻しなければ生まれ変わりません。末那識もできません。表層意識もなくなるわけですから悩みは生まれないですね。それで輪廻しなければいいのです。ではどうするか。実は輪廻の本体は阿頼耶識です。生命が生まれた太古からの意識です。その悠久の時間で体験したことを、蔵のように納めているので、蔵識と呼ばれます。そしてこれが何回も生まれ変わり今の自分、貴方を作っています。そして阿頼耶識は未来へと永久に続いていくのです。過去生の末那識は肉体と主に滅び、今生はまた新たな末那識が生まれ今のあなたを作っています。それで今の悩みや苦しみが生まれます。

悩みや苦しみを無くすために今生きていることになります。

悩みや苦しみを無くすためには阿頼耶識を無くせばいい訳です。阿頼耶識が無くなると輪廻の本体が無くなると言う事になりますから生まれ変わりません。これが解脱です。

ではその方法はと言うと、八正道です。八正道は何かというと「正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定」と言う八つの実践項目です。私はまだこの道を歩んでいるものでからることは恐れ多いです。以下に資料を添付します。ご参考にしてください。

 

八正道
八正道 (はっしょうどう、 巴 : ariya-aṭṭhaṅgika-magga , 梵 : ārya-aṣṭāṅgika-mārga )は、 仏教 において 涅槃 に至るための8つの実践徳目である正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のこと [1] [2] 。 八聖道 [2] [3] (八聖道分 [4] )、 八支正道 [2] [5] 、もしくは 八聖道支 [6] [7] ともいう。八正道は 釈迦 が最初の説法( 初転法輪 )において説いたとされる [2] [8] 。 四諦 のうちでは道諦にあたり、釈迦の説いた 中道 の具体的内容ともされる [2] 。 katamo ca bhikkhave, ariyo aṭṭhaṅgiko maggo, seyyathīdaṃ: sammādiṭṭhi sammāsaṅkappo sammāvācā sammākammanto sammāājīvo sammāvāyāmo sammāsati sammāsamādhi. [9] 比丘たちよ、聖なる八正道とは何か。 それはすなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。 八正道は 三学 として、以下の3種類に分類可能である 分類 要素 戒 [11] (梵: śīla , 巴: sīla ) 3. 正語 4. 正業 5. 正命 定 [11] (梵/巴: samādhi ) 6. 正精進 7. 正念 8. 正定 慧 (梵: prajñā , 巴: paññā ) 1. 正見 2. 正思惟 正見 (しょうけん, 巴 : sammā‑diṭṭhi , 梵 : samyag-dṛṣṭi )とは、仏道修行によって得られる仏の智慧であり、様々な正見があるが、根本となるのは 四諦 の真理などを正しく知ることである。 Katamā ca bhikkhave, sammādiṭṭhi? Yaṃ kho bhikkhave, dukkhe ñāṇaṃ dukkhasamudaye ñāṇaṃ dukkhanirodhe ñāṇaṃ dukkhanirodhagāminiyā paṭipadāya ñāṇaṃ, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammādiṭṭhi. [9] 比丘たちよ、正見とは何か。実に比丘たちよ、苦( ドゥッカ )についての智、 苦の集起についての智、苦の滅尽についての智、苦の滅尽に至る道についての智を正見とよぶ。 「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれるように、われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である。このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが、その世俗性の否定によって、結果として、真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである。正見は「四諦の智」といわれる。 業自性正見(ごうじしょう-) [12] ( 巴 : kammassakatā sammā‑diṭṭhi ) [13] - 業 を自己とする正見。 生きとし生けるもの( 衆生 ; 巴 : sattā )は、 業(だけ)を自己の所有とする( 巴 : kammassakā ) 業(だけ)を相続する( 巴 : kammadāyādā ) 業(だけ)を(輪廻的生存の)起原、原因とする( 巴 : kammayonī ) 業(だけ)を親族とする( 巴 : kammabandhū ) 業(だけ)を依り所とする( 巴 : kammapaṭisaraṇā ) 布施 の果報はある( 巴 : atthi dinnaṃ ) 大規模な献供に果報はある( 巴 : atthi yiṭṭhaṃ ) 小規模な献供に果報はある( 巴 : atthi hutaṃ ) 善悪の行為に果報がある( 巴 : atthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko ) (善悪の業の対象としての)母は存在する(母を敬う行為に良い結果があるなど)( 巴 : atthi mātā ) (善悪の業の対象としての)父は存在する(父を敬う行為に良い結果があるなど)( 巴 : atthi pitā ) 化生 によって生まれる 衆生 は存在する( 巴 : atthi sattā opapātikā ) 現世は存在する( 巴 : atthi ayaṃ loko ) 来世は存在する( 巴 : atthi paro loko ) この世において、正しい道を歩み、正しく行じ、自らの智慧によって今世と他世を悟り、(それを他者に)説く 沙門 、バラモンは存在する。( 巴 : atthi loke samaṇabrāhmaṇā sammaggatā sammāpaṭipannā ye imañca lokaṃ parañca lokaṃ sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedenti ) 苦諦についての智慧( 巴 : dukkhe ñāṇaṃ ) 苦集諦についての智慧( 巴 : dukkha-samudaye ñāṇaṃ ) 苦滅諦についての智慧( 巴 : dukkha-nirodhe ñāṇaṃ ) 苦滅道諦についての智慧( 巴 : dukkha-nirodhagāminiyā paṭipadāya ñāṇaṃ ) この正見は、以下の七種の正道によって実現される。 八正道は全て正見に納まる。 正思惟 [ 編集 ] 正思惟(しょうしゆい, 巴 : sammā-saṅkappa , 梵 : samyak-saṃkalpa )とは、正しく考え判断することであり、出離(離欲)を思惟し 無瞋 を思惟し、 無害 (アヒンサー)を思惟することである。逆に避けるべき思考は邪思惟(micchāsaṅkappo)である [15] 。 Katamo ca bhikkhave, sammāsaṅkappo: yo kho bhikkhave, nekkhammasaṅkappo avyāpādasaṃkappo, avihiṃsāsaṅkappo, ayaṃ vuccati bhikkhave, sammāsaṅkappo. [9] 比丘たちよ、正思惟とは何か。出離、無瞋、無害を正思惟とよぶ。 出離 思惟( 巴 : nekkhamma saṅkappa ) 無瞋 思惟( 巴 : abyāpāda saṅkappa ) 無害 思惟( 巴 : avihiṃsā saṅkappa ) このうち 出離 とはパーリの原文では nekkhamma ( ネッカンマ )で、世俗的なものから離れること( デタッチメント )を意味する。財産、名誉、など俗世間で重要視されるものや、感覚器官による快楽を求める「五欲」など、人間の俗世間において 渇望 するものの否定である。これら3つを思惟することが正思惟である。 Katame ca thapati, aku